2013.06.11(Tue)
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 魔界三国が一国、東のガデン。
 水晶の都は、未曾有の災害に飲まれた。
 上空を旋回する龍は、己の身が傷つくのもかまわずに、雷を、炎を、氷を降らせた。
 都を守るはずの岩石巨人は狂乱し、手当たり次第に破壊を繰り返している。
 日向に置いた氷のように、都は見る間に削れ、溶けていく。
 都の中心部、ガデンの魔王の住まう緑水晶の城で爆発が起きた。



FAMILIAR ~ゼロの刻~ -->説明書


   帰還者(13)


キーワード:【白】、魔界、兵士、なりそこないの魔物、異界の門

 開いた壁の前で緑の粒が舞う中、白い髪の女が身の丈より大きなハルバード掲げていた。
 長く白い髪に黄金の瞳、その表情からは魔王と相対することへの恐れの色は微塵も無い。
 まるで人形のような女だった。
「おのれ、使い魔以外は狂うたか!」
 かつての側近たち、鋼の身体を握り潰して、魔王が吼えた。
 身を潜めていた魔王の使い魔が、一斉に女に襲いかかる。
 ただの一呼吸。
 それだけで、使い魔たちは分解され、女の口に吸い込まれた。
 白い喉が動いて、光の粒になった魔族を嚥下する。
 喰ったのだ。
 あれだけ食べても尚、女は眉一つ動かさない。腹がふくれた様子もない。
 発動した魔法のことごとくを、あの女は喰う。
 魔術に秀でた物は木偶の坊と化し、強靱な肉体を持ち武術に長けた者は心を侵された。
 サジェスの残党を加えた有象無象の集団が、こうも早くまとまった動きで進軍してきたのは、発狂しているからだ。
 城の外では、限界まで魔力を絞り出して死んだ龍が落ちていく。
 赤き獣の一団は、軍隊でもなんでもない。
 王として、民を導く存在ではない。ただ、荒らすだけだ。
 こんなものを、ガデンの魔王は認めない。
 床に埋め込まれている鉱石が、魔王の意思に従って輝きだした。
 たとえ相打ちになっても、こんな存在を許してはいけないのだ。
 緑色の光が玉座に溢れ、城は光の柱に包まれた。


 廃都を覆うのは歓声か、喝采か。
 魔界の頂点を目指した魔族の眠る瓦礫を、ハルバードを手にした女は踏みしめた。
 二人目の魔王を倒しても、女の表情はやはり動かない。
 ただ、南の方角に首を傾けた。
 魔界三国、残るは一国。
 最後の魔王がいるダリアロの方角だ。
 女の胸元で、青い宝石のついた首飾りが揺れた。
 勝利を祝う歌が聞こえる。
 それは、廃都一帯に響き渡った。


 これは復讐。
 これは裁き。
 これは粛清。

 逆らう者よ。
 従う者よ。
 心して聞け。

 我らは整備者。
 荒れた大地に再生の時を。
 この世に永遠の安らぎを。


 歌が終わると、廃都は拍手に包まれた。


  ・/・


 魔界三国、最後の一国。
 人型系魔族が治める南の小国ダリアロ。
 その首都は、黒き穴より来し、赤き獣の一団を目にして、慌ただしくなっていた。
 国境沿いにいたガデンの兵が撤退したので、赤き獣の一団とは、ガデン側にある毒の沼地で《皆殺し》によって決着をつけることになった。
 下級魔族だけでなく中級魔族も出て、沼地への誘導役を担当する。
 上級魔族は、下級・中級魔族のフォロー役になった。
 残りは首都の防衛だ。
 なりそこない部隊は解体されて、各拠点に組み込まれた。
 身分がどうの、手柄がどうとか言っている場合ではない。
 今こそ、ダリアロの民一丸となって、赤き獣の一団を討ち滅ぼさねばならないのだ。


 ユミルは首都の防衛と司令部に、テムニィは毒の沼地よりさらに南下した地点、《皆殺し》の後衛部隊の配置になった。
 遠見の術では、《皆殺し》の黒い霧を覗けないから、《千里眼》が必要なのだ。
 結果を見届けて、首都に伝えるのが《千里眼》に割り当てられた仕事だった。
 敵は、黒き穴を通じ、魔界とは異なる世界から舞い戻った帰還者だ。
 瞬く間に二つの大国、二人の魔王を殺してのけた。
 正面からぶつかっては、このダリアロに勝てる見込みはない。
 なればこその《皆殺し》。
 新市街地を設けてまで飼い殺して来た《なりそこないの魔物》を解き放つときが来た。
 もし、《皆殺し》のガルガが抜かれたら、上級魔族が動き出す手筈になっていた。
 上級魔族は皆、一角の魔王によって力を押さえる枷がかけられている。まだこの世界に果てが無かった頃の力は、今の果てのある魔界では強すぎるから。
 それを全て、取り払おうと言うのだ。
 国土を崩落させ、海を蒸発させてでも、赤き獣の一団を殲滅しろ。
 それが我らが一角の魔王様からの勅命だ。
 民の避難先など何処にも無い。魔力の余波で、打ち砕かれる辺境の街など知ったことか。
 我らが魔王。一角の王さえ居れば、緑はやがて蘇るのだから。後は生き残りが何とかしたらいい。
 魔界三国間の争いであれば、互いに国土に配慮した戦いをしたであろう。
 配慮していたから、サジェスとガデンは後れを取ったのだ。
 上級魔族の枷を外す間もなく、赤き獣に喰いつくされた。
 だが、ダリアロは違う。二国が滅びる様を見て、手加減などするものか。
 何故、小国で有りながら名をはせるか、赤き獣の一団にとくと見せてやろうぞ。

 世論は最終戦争の装いだった。
 だから、帰還者の中に、かの《皆殺し》の妻が混じっていたとしても、ガルガは退くわけにはいかなかった。
 妻と魔界の総人口を天秤にかけて断れるほど、彼は強くなかった。


  ・/・


 沸き立つ沼の上空で、ガルガは黒いフードを深く被り、スカーフで鼻と口を隠した。
 《鍛冶師》の服なら、揮発性の毒素も無効化してくれる。
 毒の地平に、黒い鉱石でできた砦が見えてくる。
 ガデンの魔族が作った砦に、ガルガは降り立った。
 毒の沼地は、いっそ毒の平野と言っても良いぐらいに広かった。
 草木は育たず、真水も無いようなこんな土地を生息地として押さえるのは、鉱物系魔族が主体で、毒の効かないガデンの魔族ぐらいのものだ。
 ダリアロの魔族の生息地には適さないここなら、存分に《皆殺し》が使える。
 右腕を水平にふると、沼地が揺らめき、色を変えた。
 遠見の術が、ここに近づいてくる赤き獣の一団を映し出す。
 力尽きた獣を踏み潰し、ダリアロの下級魔族との交戦を挟みながら、少しずつ沼地へと進路を変えていく。
 二人の魔王を殺してのけたハルバードを持った女は、白い髪をたなびかせ、乗り物にしている魔族が潰れる度に、新しい魔族の背に乗り換えていた。足下で何が挽きつぶされようと、瞬き一つしない。作り物めいていて、生きている感じがしなかった。その無感情な黄金の瞳は、黒き穴の向こうで何を見たのか。
 茶色い髪と瞳でころころと表情を変えていた《無能》のアルマは、そこには居なかった。
「まったく、石に綺麗な景色をみせてやるんだとかいって、自分で最悪の光景みせてたら世話無いよな」
 いっそ良く似た別人であればいいのに。
 本人であることを示すように、女の胸元では首飾りが揺れていた。
「殺せるのか?」
 翼の羽ばたく音と共に声をかけられて、ガルガは映像から目を離した。
 触れた者には敵味方関係なく作用してしまう《皆殺し》の性質上、ここに来るのは、ガルガ一人のはずだった。
「……使い魔は全員、首都の防衛じゃなかったのか」
 大きな翼を広げ、屋根上に腰掛けているミルクに向けて言った。
「誰か、《皆殺し》の護衛が必要であろ。アレが未だに《無能》の力を残していたら、主の霧は効果がないと言うでは無いか。任せておれよ。師が弟子に負けてなるものか」
 使い魔の手には、アルマとの訓練時にみせた魔剣が握られていた。
 今は、剣に宿した魔法効果が発動しているのか、刀身に文字が浮かんでいる。
 ふぅと使い魔が白い息を吐くと、屋根に霜がおりた。
 ガルガは黒いローブの下で、鳥肌の立つ腕を掴んだ。
 使い魔の身体に満ちた魔力に怖気だつのをこらえて、普段通りのふりをした。
 これがミルクの本気なのだろう。
 全力を出せば首都そのものを壊してしまうから、普段は魔力を押さえているのだ。
「魔王様の許可は頂いた。ここに居る我は、魔王の代行者であるぞ」
 そう言って、ミルクは不敵な笑みを浮かべた。
 楽しくてしかたないのだ。
 檻の外で全力を出せる機会など、滅多に訪れるものではないから。
「ミルク、《皆殺し》――黒い霧には近づくなよ。これだけ広い範囲を《皆殺し》にするのは初めてなんだ。俺にも、御しきれるかどうかわからない。……お前が来なければ、理性など霧にくれてやったんだがな」
 後半は、吐き捨てるように言った。
「ふむ。正気で、アレと顔を合わせるのはつらいか。嫌なら断れば良かろうに。《なりそこないの魔物》というのは難儀な性分だな」
 勝手なことを言う。
 断れば、役立たずはいらぬと処刑する国で、よく言えたものだ。
「そうだよ。困っている同胞がいたら、手を差し伸べる主義なんでね。……本当は、数なんかで選びたくなかったよ」
「我は、ガルガがダリアロに残ってくれて嬉しく思うぞ」
 使い魔が目を細めて笑った。その言葉に偽りはないだろう。
 だがその表情は、蛇を思い出させた。
 ユミルが嘘をつくときの表情に、とても良く似ていると気づいたとき、ガルガは口を開いていた
「ミルク。俺の護衛に来たのは嘘だろ。俺が、赤き獣の側についたらその剣で処刑するつもりだった。違うか?」
「ほう」
 使い魔はガルガの言葉に感心した様子で、相づちをうつ。
 ミルクは否定しなかった。それが答えだ。
 まだ赤き獣の一団が到着するまでの時間はあるのに、使い魔はすでに剣を抜いている。
 肉体強化の術も全てかけ終えて、今すぐにでも戦闘開始できる状態になっている。
 万全を期してというには、早すぎる。
 それもそのはず、これは《皆殺し》と戦うことを想定した備えなのだから。
「だったら安心しろ。俺は殺戮者の軍団になど加わらない。これ以上、道を違える前に殺してやるのが、俺がアルマにしてやれる最後の手向けだ」
 皆で手を取り合い、一つになることを望んでいた女だ。
 魔族を喰い、その身を血で染め、争いの渦中に立つことをアルマは望まない。
 だったら、ここで終わらせてやるべきだ。
 ガルガの言葉を本心と受け取ったのか、使い魔は頷くと手にした魔剣を屋根に突き立てた。この世で龍の鱗に次いで固いと言われている、鉱石系魔族がこさえた建築物を剣は易々と貫通する。魔力が込められているからか、訓練の時とは比べものにならない切れ味だった。鞘を持たないのではなく、納められる素材が無いのだ。
「魔王様がな。事が片付いた後に、主と一度話してみたいと言っておったぞ。我の話で興味を持たれたそうだ。もしかしたら、主も我の同僚になるかもしれんな」
「《なりそこないの魔物》を使い魔にするっていうのか」
 魔物を魔王が取り立てるなど聞いたこともない。
 ガルガが驚く様子が面白かったらしく、使い魔が声をあげて笑った。
「くくっ、ほんにガルガは己をわかっておらんな。この作戦が成功し、サジェスとガデンの両魔王を殺した者を主が殺したなら、《皆殺し》は今後、魔王級の扱いを受けるだろうよ。そんな事もわからんとは、よほどアルマの事が気がかりと見える」
 成る程。《皆殺し》が成功したら、事実はどうあれ、対外的には一国に魔王級が二人居ることになる。争わぬためには、どちらが上か決める必要があるのだ。
 そういう時、使い魔契約ほどわかりやすいものはない。
 もちろん、ガルガに自分が魔王になるという気概はない。
「そなたら、オルタシアの娘と共に、なりそこないの昇格を願っているそうではないか。魔物ではなく魔族として扱ってくれとな。魔王様と契約を結べば、その願いも叶おう。魔王の代行者とその一族を魔物と罵るような輩は全て《皆殺し》にしてしまえばいい」
 ガルガはため息をついた。
 どうも使い魔と話していると調子が狂う。
「魔界が滅びるかどうかの瀬戸際だってのに、終わった後の話か。暢気なものだな」
「褒美もなしに戦う兵はおらんよ。やむなき事といえ、お主から《無能》を取り上げてしまったのだ。これぐらいの礼は当然であろ」
「……礼、ね。名を奪われ、魂を拘束され、生殺与奪権をゆだねるばかりか、意に反する命令にも逆らえなくなる存在にする。それが礼なのか」
 使い魔契約によって魂を縛られるとはそういうことだ。
 そして一度、使い魔契約を結んでしまえば、たとえ魔王であっても契約の破棄はできないと聞く。
「逆らうことはできるぞ。その後の保証はせんがな」
 ミルクは、ガルガにも使い魔になって欲しいらしく、積極的だった。
「ガルガは使い魔契約について誤解しているようだ。契約することで、我々使い魔側にも利点がある。我らは魂の鎖を通じて、魔王様から魔力を分け与えて頂いている。ゆえに我ら使い魔は、代行者たり得るのだ」
 魔力を万能の力として変換できる魔界において、魔力の強さがそのまま勝敗に直結している。
 ならば、今のミルクは魔王の力を借りている状態なのかと問えば、然りと使い魔は頷いた。本来のミルクは中級魔族相当の実力だが、代行者として力を借りることで魔王の側近クラスと同格になるらしい。
「そうでなければ、上級魔族たちが反乱を起こすであろ」
 と、使い魔は笑った。
 魔界は、力によって統治されている世界だ。上に立つ者が、自分より少しでも劣ると知れば、簡単に裏切る。それをしないのは、上級魔族が束になっても敵わないほどに、魔王とその手駒が強いからに他ならない。
「おい、ちょっと待て。それじゃあ、お前ら魔王の使い魔ってのは……」
 ガルガは自分の使い魔に対する認識の甘さに気づいて、うめいた。
「我らは魔王の代行者である。それ以上でもそれ以下でもない」
 そんなガルガをミルクは、楽しげに見下ろしていた。
 ガルガの知る魔王の使い魔は三人いる。
 ミルクと、酒場でミルクを連れて行った奴と、首都の入り口を守る受付の三人だ。
 魔王の使い魔が全部で何人いるかはしらないが、ミルクの言葉通りなら、その全員が準魔王級の力を持つことになる。全員が魔王に忠誠を誓った契約者だ。どんな命令にも従うし、逆らう心配はない。国の維持に、これほど使い勝手の良い者たちはいまい。
「……それで、魔王様側に使い魔が死ぬことでのペナルティはないのか」
「無い。我は魔王様の手足のように動くことを望んだが、本当の手足ではない。指の爪を切ったところで痛くはあるまい。ただ、例外はある。もっと深く、使い魔契約を結ぶのなら、主にもそれ相応に負荷がかかるだろうな」
「ん? 使い魔契約に種類なんてあるのか」
「うむ。契約時に名を用いるであろ。そこで、片方だけでなく、互いに名を捧げあえば、それこそ魂を一つとするような関係になれるであろう。どちらが主にも従にもならん。同等の関係になる。ここまで深く繋がってしまうと、片方が命を落とした時、もう一方もただではすまぬよ」
「二つある魂が一つになるってのか。そんなの、もう融合と同じじゃないか」
 魔法で外見を自由に変えれてしまう以上、個体は魂で区別している。
 肉体や記憶を継続していても魂が違うなら、それは他人だと考えるのが常識だ。
「互いに名を無くすのだから、新しく生まれ変わるようなもんかもしれんな。まぁ、魂が繋がっているだけで身体は二つあるわけだが。……原理として知っていても、実践した者の話は聞かんな。一つの魂で身体が二つあっては、弱点も二倍になる。これでは使い魔契約の利点が無くなってしまうからな」
 使い捨てのできない手足が増えては、意味がないと使い魔は言った。
「変な仕様の術だな。両方の名を捧げれるようにしておく意味はあるのか」
 使い魔契約は古くからある、それこそこの世に果てができる前からある術の一つだ。
 魔族でなくとも、魂がある者であれば誰にでも使える。
「さてな。古代人の考えはわからんよ」
 ちらりと、ミルクが遠見の映像へと視線を落とした。
 肉眼ではまだ見えないが、赤き獣の一団は、そろそろ先頭が沼地にさしかかっている。
 お喋りはこの辺で終わりだ。
 なぜか、使い魔は頬を赤らめると咳払いをした。
「さ、そこでだ。死出の遊戯を始める前に、互いの気持ちを確認しあう必要があると思うのだが。むろん。言葉では無く、肉体的に」
「帰れ。変態の護衛はいらん」
 ガルガは即答した。
「これは真面目な話だぞ。あのアルマのことだ。我とそなたが熱い口づけの一つも交わせば、焦って元の記憶を取り戻すのでは無いか? ほれ、訓練場でも駆けつけてきたであろ。あのように見せつけてやるのだ」
「そうか。それなら………いや、無い。無いな」
 一瞬、それでアルマが正気に戻るなら有りかと思ってしまった自分に、慌てて首を横に振る。ミルクは残念そうに肩を落とした。
「俺が使い魔になる件は考えておくよ。今は、目の前の《皆殺し》に集中させてくれ」
 赤き獣の足音が轟く。遠くで稲光が見えた。
 誘導は上手くいっている。だから、次は《皆殺し》の番だ。
 一度両腕を広げたあと、胸の前で拳をあわせた。
 あとは思い出すだけだ。
 《皆殺し》に目覚めた、あの日の惨劇を。あの時の感情を。
 ガルガは小さく、口の中でつぶやいていた。
「――もっと、この世が暗ければ良いのに。いっそ。この身が、闇に溶け込めたら良いのに……」
 ガルガの腕があるべき場所から、黒い霧があふれ出す。
「ガルガ。全体が沼地に入ったら、我が足を止めさせる。我に構わず、一気に皆殺せ」
 魔剣を引き抜くのは面倒だったのか、ミルクは剣を振り上げた。
 魔剣によって切り落とされた屋根の端が滑り落ち、毒の沼地へと落下する。
 ミルクは身の丈をゆうに超える翼を広げて、赤き獣の一団を目指して飛翔した。


  ・/・


 赤き獣の一団は、毒の沼地を前にしても止まらなかった。
 目の前で皮膚が爛れ崩れ落ちる者がいても、何の躊躇いも無く飛び込んでいく。
 底なし沼に魔族の死骸で橋を作る。
 群れを誘導する囮役を勤めていたダリアロの魔族が沼に落ちても、獣の進路は変わらなかった。
 ただ、一直線にダリアロの首都を目指している。
 毒の沼地唯一の建築物、その砦の上には暗雲が立ち込めていた。
 いかなる魔法、生き物、物質の存在を許さぬ、《皆殺し》の雲だ。
 これは黒い霧であり、ガルガの身体そのものだ。
 変化させるのが、指一本、腕一本までなら、まだ人である部分の方が多い。
 これが逆転したらどうなるかは、よく知っている。
 生まれ故郷は、もうガルガの記憶の中にしか残っていない。
 前は、危うく人型に戻れなくなるところだった。
(いっそ。戻れなくても良いのではないか)
 両腕と両足を霧に変えた辺りで、そんな考えが頭をよぎった。
 能力と引き替えに起きる精神汚染だとわかっていても、その考えに心が揺れる。

 あんな姿のアルマなど見たくは無かった。
 皆の言うとおり、黒き穴に飲まれたときに、アルマは死んだのだ。
 そんな真実は、知りたくなどなかった。
 見たく無い。見せないで欲しい。
 アルマに似て、アルマではない。良く似た姿で、惨劇を生み出すあの女。
 とかくこの世は明るすぎて、あの女がよく見える。
 もっと暗く、もっと深く闇に沈めばいいのに。
 もっと、もっと。全て、闇に飲まれてしまえば、何も見ずに済むのに。

 黒い霧が沼地を滑るように広がっていく。
 遠見の術による映像が乱れて消えたが、そんな術に頼る必要はなくなった。
 霧と化し、薄く広がった意識で、沼地の様子を知覚する。
 黒き穴より現れし、赤き獣の一団は軍団になっていた。
 サジェスとガデンの生き残り、途中にいた魔物を戦列に加えて、竜族や岩石巨人、何処にも属していない獣が、ダリアロある南へとひた走る。
 彼らにはもう、魔族であったという知性など感じられない。魔界に残されていた生息圏を守ろうという配慮もない。綺麗な水を流す滝を煮立たせ、樹木は根こそぎなぎ払い、魔獣の巣を踏みつぶしてここまできた。
 ただ破壊するために狂走する。
 赤き獣の群れへと一直線に飛翔していた使い魔が、大きく反対方向に羽ばたいた。
 使い魔が持つ魔剣を中心に冷気が渦を巻く。
 その足下で波立つ沼が凍っていく。
 毒の沼に頭を突っ込んだまま走ってくる魔獣の頭で、なりそこないの女がハルバードを構えるのが見えた。その周囲にいる魔族が、魔法を放とうとする光が集う。
「遅い――っ!」
 剣を振り抜き、魔法を発動させようとするミルクの耳に、鈴の音と共に歌が聞こえた。
 肉声では無い。人の心を絡め取ろうとする呪歌だ。

 これは復讐。
 これは裁き。
 これは粛清。

 逆らう者よ。
 従う者よ。
 心して聞け。

 我らは整備者。
 荒れた大地に再生の時を。
 この世に永遠の安らぎを。

 小さな子供が笑う声が、頭に響いた。
 精神掌握。魅了の術の類いか。
「くだらぬわっ。我が従うは、我が君のみっ!」
 一喝し、ハルバードを持つ女に向けて魔剣を振り抜いた。
 放射状に沼地が凍る。凍った足場から無数の氷の槍が縦横無尽に屹立し、狂った魔族どもを、発動しかけていた魔法を貫く。
 ハルバードの女は、迫り来る氷の槍の隙間に身を滑らせ、何本かは切り裂いて難を逃れた。斜めに傾いた氷の槍の上を駈けて、使い魔に接近する。
 頭や足に包帯を巻いて、杖を突いて塔へと遊びに来た娘の姿は、そこに無かった。
 女の表情は、歌に操られている他の魔物と同じだ。
「主のこと、嫌いではなかったよ」
 使い魔は、アルマと刃を交えずに、大きく羽ばたいた。
 一気に上昇したその足下を、黒い霧が雪崩のように飲み込んでいく。
 使い魔が生み出した冷気で足が凍って身動きがとれなくなった一団と、そしてアルマも飲み込んで、砂へと変えていく。
 圧巻だった。圧倒的だった。
 霧が通り過ぎた後には、白い砂の道が出来ている。
 見渡す限りの毒の沼地が、砂地へと変わっていく。
「くく、これが《皆殺し》か。やはりな。十分に恐ろしいでは無いか」
 あれほどあらぶっていた魔力が消えていく。
 ガルガは、本当に自分の価値をわかっていないし、魔族も彼にわからせようとはしないだろう。彼は知らないのだ。
「《鍛冶師》は、アレを殺せると言っていたがな。嘘つきが。あんなもの、魔王様にだって殺せないだろうに!」
 牙を見せて、興奮を隠そうともせずに使い魔は言った。
 空を飛んでいた飛龍の群れが、霧に触れて砂に変わっていく。
 飛龍の身体が崩れるより前に、それらを踏み台にして駆け上がってくる人影があった。
 この霧の中で動ける者など、ただ一人。
 黒い霧を抜けて、アルマだった女がハルバードを使い魔に叩きつけようと身体をひねる。
 水龍のエラと《鍛冶師》の術がかかった深紅の刃は、この冷気の中でも凍らなかった。
「馬鹿者がっ。貴様の弱点など、知れておるわっ」
 使い魔が、肩に掲げていた魔剣を振り下ろした。
 剣風が空気を割った。
 《無能》に直接的な魔法が効かなくとも、物理的な攻撃は効くのだ。
 例えば、剣を振った際に発生する衝撃波でも。
 剣風を真っ向から受けて、ハルバードがアルマの手から飛んだ。
 女の苦悶の声は風に引きちぎれて、女は地面へと打ち返された。
 砂煙が舞って、衝撃波の跡が砂地に刻まれる。
 地面に倒れているアルマは動かなかった。
 近くに、ハルバードが突き立っている。
 一度は通り過ぎた黒い霧の波が、方向転換して戻ってきた。
「おい、ガルガ。待て!」
 霧が小さな一点に集まろうとしているのに気づいて、使い魔は声をあげた。
 まだ、安全が確認されたわけじゃない。
 《皆殺し》を解くのは危険だ。
 使い魔も下に降りようと翼を大きく広げて――黒い点が眼前に生まれた。
「――っ! 黒き、」
 小さなそれは瞬く間に大きくなって、身を翻し、魔剣を構えようとする使い魔の上半身を囓り取った。



>>終に続く